
幸福と呼ばれるものすべてを作り出す原因を功徳と呼びます。功徳とは「分かち与えること」と「自らを制すること」の2つから成り立っています。 |
功徳の威力分かち与える行い(施与)と戒律を守ること(自制)、この2つの行いから生まれるものを功徳といいます。功徳はブッダにより以下のように定義されています。 功徳とは安楽、人の願うもの、欲するもの、愛するもの、快いものの同義語である。長い間にわたって功徳を積めば、長い間にわたって願わしく、欲する、愛する、快いその果報を受けることを私は知っている。
(イティヴッタカ)
「私は、七年間慈しみの心を修練したのち、その果報により世界が七度まで崩壊と生成を繰り返す間、実に光音天にいたのである。
また世界が生成している間は、まだ住する天神もない空虚な梵天宮に生まれていたのである。 比丘たちよ、実にそこにおける私は、梵天であり、大梵天であり、征服者であり、征服されることのない者であり、すべてを見る者であり、最高の権威を持つ者であった。 そして比丘たちよ、私は三十六回も、諸天の帝王である帝釈天であった。 私は数百回も、正義に従う正義の王であり、四方に威をふるう征服者であり、国々の統治者であった。七種の宝を持つ転輪聖王であり、地方の小国にまでも威光を及ぼしたのである。 比丘たちよ、それについて私に次のような思いが生じた「私がいまこのように大神力があり、大威力があるのは、私のいかなる行いの結果であるのか。いかなる行いの果報であるのか」と。 比丘たちよ、それについて私に次のような思いが生じた。「私がいまこのように大神力があり、大威力があるのは、私の三つの行いの結果である。三つの行いの果報である。すなわち、施しと自制と禁欲との結果である」と」 (イティヴッタカ)
一切の生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。
弱いものでも、強剛なものでも、長いもので、中位のものでも、短いものでも、微細なものでも、大きいものでも、目にみえるものでも、見えないものでも、遠くにいるものでも、近くにいるものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれるものでも、一切の生けるものは幸福であれ。 他人を欺いてはならない。他人を軽んじてはならない。怒りの想いをいだき他人に苦痛を与えることを望んではならない。 母が我が子を身命を賭しても守るように、一切の生けるものに無量の慈しみの心を起こすべし。
無財の七施誠実を尽くすことにより信頼を得る 『無財の七施』
1.眼施(げんせ) 「常に良いまなざしで見て、険しいまなざしで見ない」 2.和顔悦色施(わがんえつじきせ) 「悪い感情をあらわにした表情をしない」 3.言辞施(ごんじせ) 「柔和な言葉を使い、粗暴な言葉を使わない」 4.身施(しんせ) 「礼儀正しい態度をとること」 5.心施(しんせ) 「眼施から身施までの四つの施与は心がこもっていなければ施与となならない」 眼、表情、言葉、身体による施与とは心による施与の表現であることを意味する。 6.床座施(しょうざせ) 「席を作って座らせる、あるいは自分がすでに座っている席を譲ってあげる」 7.房舎施(ぼうしゃせ) 「家の中に迎え入れてあげること」 屋根しかないような粗末な家であったとしても、野外にいて雨・日照りなどで難儀している人にとってはとても助かる。
観察「慈しみの心」の実践しようとしても、ほとんどの人ははじめから「一切の生けるものの幸福を願う」といった心を発生させることはできなのではないかと思います。これは、人間はこの世に生まれた時すでに心の偏向を持っているためであります。この心の偏向は、その人の好き嫌いの感情の源泉となっている要素でもあり、その人運命を決定している要素でもあると言えます。それは、先祖の遺した意識の集積であるとも言えます。 この偏向はモーターが回転するような速さで、この瞬間、次の瞬間とそれを生起させ続けています。さらに、それらは多重的に複数存在します。生起し続けるこれらの心の偏向に対して、自分の中の他人を見るように客観視して根気よく観察し続けることが「慈しみの心」の実践の第一歩です。意識はそれを観察し続けることにより消えていくという性質をもっています。自我意識の構成要素を観察し続けることによりそれらを1つ1つ解放していき、やがては太陽のような明るい心になっていくことを目指しましょう。 |