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自己の確立・自己をよりどころとして生きる - そして運命の創造へ

恩を知り、恥を知り、善を志し、自らの無力を知り、信仰に解を求めて挫折する。
自分というものを捨てられないがために。
これこそが自分と思っているものは実は自分の中の他人、
それは好き嫌いという感情の作り手、
それは運命を決定する条件。

自己の観察

自我とは他人の集合体でした。この他人の集合体がどこか来ているのかと問うならば、それは先祖の意識であるとしか考えられません。自我を構成している意識は肉体の遺伝とは別の仕組みによって伝わる遺伝のようです。先祖の意識の複合体の中には、自分の両親の人生経験、あるいは自分の両親の兄弟の影響も含まれていることからそれを理解することができるでしょう。もし肉体の遺伝と意識の遺伝が同一のルートをたどっているならば、自分が生まれた以後の両親の人生やあるいは、同じ先祖から生まれた他の人の意識が自分の意識にも影響を与えるということは無いからです。

自我を構成している他人を慈しみをもって深く掘り下げ観察しつづけるならば、次第に自分自身に振り回されるということが無くなっていくことでしょう。これが自己を確立していくための第一歩です。

心はそれを観察し、その仕組みが理解されていくことによって、それが消えていく方向に向かうという性質を持っています。

自己の表現

自分が違和感を感じること、好きでもないことをやろうとしても長くは続きません。それ故に、はじめに自己の希望と苦悩を観察します。自分の好き嫌いをどこまでも掘り下げて観察します。自分がそれをいくらくり返しても飽きないこととはなんだろうか。いくらでも夢中になれることとはなんだろうか。あるいは、自分にとって耐えがたく、どうしてもそれを解消してしまいたいこと、どうしてもそこから逃れたいことは何だろうかと。
はじめのうち、それらは多数あるかもしれません。しかし、忍耐強く観察をくり返すことによって、タマネギの皮をむくように、次第により本質的な希望と苦悩、より根本をなす好き嫌いへと近づいていきます。
こうして、自分自身の生涯におけるライフワーク、人生の目標というものを明らかにしていくわけです。

それは自己の表現から始まる

世の中の需要に応え、お金を稼いでいくためには、自分が提供しようとしているものが世の中から注目されていかなければなりません。そのためには、他の誰でもない自己自身というものを表現していく必要があります。他の誰にもまねできない自己自身であるほどよいわけです。

たとえば物販の場合、自分の店舗の独自性を高めていかなければなりません。個人で始めるならば、自分にとって得意な分野に絞り、よりニッチな需要を掘り下げていけば、それ自体に需要が発生します。

自己を表現していく道は、自己の確立の手順にのっとって、自分の出来ることをやることから始めて、自分の好きなこと、自分がいつまでやっても飽きないことを追求していきます。このようにして自分の表現をしていったとしても、はじめのうちは世の中は何の反応もしないかもしれません。しかし、そこであきらめることなく、自分の筋をどこまでも貫いて、何年でも努力を継続していきます。すると、自分でも想定していなかったような世の中の反応に出会います。

具体的な例あげましょう。

斉藤勝也さんの例
斉藤勝也さんはアパート経営のかたわら、油絵を描いていました。個展を開いたり、公募展に出品することは一切せず、フェイスブックに自分の作品の写真をアップするということだけをしていました。ヨーロッパの人たちの反応が主であったことから、ヨーロッパを中心に友達を増やし、そして数年前からは赤いカーテンから顔をのぞかせている人物という構図の作品に特化して投稿し続けていました(写真下)。

  

すると突然、スロバキア最大の小売店であるCOOPの会長から、COOPギャラリーで展覧会を開いて欲しいというオファーがあったのです。
  
COOPでの展覧会ポスター(左写真)
COOP会長(右写真右、左が斉藤勝也さん)

しかも、二度目の展覧会はスロバキアで伝説的な実績を誇るレスリングチャンピオンだったジョゼフ・ロヒナとのコラボレーションでした。ジョゼフ・ロヒナの輝かしい実績の展示と組み合わせて、なぜか斉藤勝也さんの赤いカーテンの作品の数々が展示され、新聞でも大きく報道されました。

左写真右端がロヒナ選手

ロヒナ選手は東京でも活躍しています
(ZEMPLÍNČAN より)

スロバキアのある画廊経営者が、斉藤勝也さんの作品に以前から注目していて、COOP会長に伝えたようです。スロバキアは長い間共産主義国家でした。斉藤勝也さんの赤い色を主調とした主題には彼らの心を捉える何かがあったと言うことなのでしょう。そしてこのことは斉藤勝也さん自身にとってもまったく想定もしていなかったことなのです。

このようにあきらめることなく、自分自身を貫いてそれを表現し続けているならば、どこかでそれを見ている人がいて、それを評価してくれている人がいるのです。斉藤勝也さんは、これからは絵画に加えて自分の書いた詩をヨーロッパを中心に多国語に翻訳して発表してみるということに挑戦してみるそうです。


岩本薫さんの例
岩本薫さんは(私の弟です)、コピーライターが本業で、主に地方の企業のブランディングを提案する会社を経営しています。コピーライターが仕事だけあって、さすがに戦略的で、自分の会社のサイトに対するアクセスを集めるため、地方のメジャーではない温泉を渡り歩いた記録をWEBマガジンの形式で発行して、フェイスブックとも連動させていました。昭和に活躍した漫画家、つげ義春の温泉旅行記に影響を受け、日本各地にある、あまり知られていない温泉を探しあるいたのです。現在ではつげ義春が旅行記を出したころの秘湯といったものはほとんど無くなっていたので、自分の探し出した温泉をひなびた温泉と名付け、「ひなびた温泉研究所」という題名のマガジンにしたのです。

(ひな研より http://hina-ken.com/)

「ひなびた温泉」とは、建物の佇まいや湯船、脱衣所、桶やお湯、街並に時間が染み込んでいる温泉で、家族旅行には向いていないと思われるアンチ観光ガイド的温泉と定義し、地方に行く機会の多い仕事のついでに、そのような温泉ばかりを200以上も旅行してこつこつと旅行記をWEBマガジンにあげていました。

何年かして、WEBマガジンの記事がたまると、メディアがこのマガジン記事に注目するようになったのです。テレビやラジオの取材が相次ぎ、BS日テレ「中川翔子のマニア☆まにある」、TVK「サタミンエイト」、文化放送「くにまるジャパン/おもしろ人間国宝」、鹿児島テレビ「ナマ・イキVOICE」等に出演しました。

(BS日テレ 中川翔子のマニア☆まにある http://www.bs4.jp/manimani/onair/74.html)


(文化放送 くにまるジャパン http://www.joqr.co.jp/japan/2016/03/post-3989.htm)

そして、WEBマガジンの内容をまとめた書籍が山と渓谷社から出版されました。

(ひなびた温泉パラダイス 山と渓谷社)

アクセス集めのため、仕事ついでに行っていたことが、1つの方向に特化して執念深く追求した結果、思わぬ反響を呼んだのです。このように1つの方向に特化することは、世の中全体から見れば、貴重な存在になってしまうということなので、そこに需要が生まれます。岩本薫さんは、60才以降は主にこちらの方向で、地方文化をナビゲートするような仕事で収入を得ていきたいそうです。

斉藤勝也さんの場合も、岩本薫さんの場合も自分に無理なことや、あれこれといろいろなことをするのではなく、やることを自分が余裕を持って出来る範囲に絞っていること、そしてそれを何年も継続していることが共通していると思います。このように自己の表現とは、自分の出来ること、自分の好きなことから始めて、それを掘り下げて行けばよいので、誰にでも出来ることでなのです。

自己の観察を深める

自分というものを把握し、それに集中することができるようになったら、さらに自己に対する観察を深めていきましょう。
自己を観察する営みは、「我」「汝」「彼」の3つの概念で考えるとわかりやすいでしょう。

「我」とは観察者としての自己のことです。
「汝」とは観察されている自分のことです。
「彼」とは観察されている「汝」以外の他人のことです。

「汝」は「彼」からどのように思われているか、どのように評価されているか、「汝」を「彼」と比べるとどのようであるか、このようなことに日々煩悶し、「汝」は対策を練ろうとする。これが、人格というものが作られていくプロセスであることも理解されます。しかし、「汝」と「彼」に捕らわれている限り、人間の狭い枠を超えることは出来ません。

「汝」は観察され続けることにより、やがてその力を失い解消していきます。
同時に「汝」による「彼」に対する様々な偏向した思わくも解消していきます。

「汝」が解消していくと、今度はそれまで「我」だと思っていた観察者が、観察される対象としての「汝」に変化していきます。
「我」は、たまねぎの皮に喩えることができます。「我」という玉ねぎの皮を剥けば、それは「汝」に変わり、より深部の「我」が現れてきます。
玉ねぎの皮を剥き続けると最後には無くなってしまうように、「我」には、実体がないのだということも直観されてくることでしょう。
そして「汝」も「彼」もまぼろしのようなもの、「どこにもなにもない」、それがゴールなのだということも理解されてきます。

このような深い自己の観察は、瞑想をしなければ出来ません。

それは、自分が生まれてからこのかたのことを清算していくことからはじめ、そして生まれる前の自己に立ち戻り、さらに自我意識の発生源へとさかのぼっていく営みとも言えます。

それは、自己の中枢に燃え上がる炎にも譬えることができます。この炎はすべてを焼きつくそうとしています。この炎に自己をゆだね、それを中道に導き、より強くこの炎を燃え上がらせていこうとする営みなのです。

このような瞑想を日々繰り返せば、運命というものの本質を理屈ではなく実感として把握していくことが出来ると思います。そして、それを変えていく道も開かれます。運命の創造者、人生における自在者としての道が開けるのです。

自己を理解するということは、自分の可能性と限界を理解することと言えます。この一生では、これ以上はどうにもならないという部分が把握できたら、それが自己の限界であり、そこまでが可能性でもあります。自分の限界を理解したら、やる必要もないことが明らかになります。自分の可能性を理解したら、何を努力して行うべきかが明らかになります。自分のなすべきことがわかるので、人生の視野が一気に開けますね。

自己をよりどころとする

自己を掘り下げ、自己の心を観察しつづけるならば、自分というものをより深いレベルで制御していくことが可能となります。

心は、それが苦痛に支配されている場合は苦悩と言われ、欲望に支配されている場合は希望と言われます。

いずれにしても不安定な状態であることは共通しています。

そして、不安定であることは苦しみであると定義することができます。

苦悩であっても、希望であっても、そこに何等かの心が生起しているとき、そこに苦があるとあるがままに観察します。あるいは、それは苦であるとあるがままに観察します。

苦しみという概念は、「それがいつかは消えていかなければならない」という原理によって支配されています。

それ故に、それが苦であることを観察することにより、それは消えていきます。苦悩の場合は、それが解消するという方向へ消え、希望の場合は満たされるという方向へ消えていきます。

中道とはそれ自身が消えていく道を現しているので、心を観察し、苦を観察することにより自ずから中道を把握していくことができます。

このような、中道による自己の制御こそは、自己をよりどころとする生き方であり、よりよい運命を創り出していく道であり、あらゆる願望を自在に成就していく道でもあります。

自己をよりどころとすることにより自在に運命を創造できるということは、仏陀もはっきりと断言しています。

戦場において百万人の敵に勝つことより、唯一つ自己に勝つ者こそ、不敗の勝利者である。
自己に打ち克つことは他の人々に勝つことよりもすぐれている。

自分が他人に教えるとおりに自分でも行え。

たとい他人にとっていかに大事であろうとも、他人の目的のために自己のつとめを捨て去ってはならぬ。自己の最高の目的を知って、自己のつとめに専念せよ。

自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、自分自身の主となる。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、自己の目的を達成する。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、徳行を達成する。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、この世で名声を得る。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、死後に名誉を得る。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、様々な幸福を得る。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、種々の天界に生まれる。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、永く天界で楽しむ。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、真理を明らかにする知恵を得る。 自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、親族の間に輝く。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、苦悩することがない。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、あらゆる束縛を断ち切る。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、動物、餓鬼、地獄の境涯を捨てる。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、すべての苦から逃れる。
自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。賢者は、自分を正しく整えて、ニルヴァーナに近づく。

(ウダーナヴァルガ 二三章より)

自己をよりどころとすれば、様々な幸福を成就することができるだけでなく、ニルヴァーナに接近することさえ可能であると語られています。

仏陀も推奨する、自己をよりどころとする生き方に絶対の信念を打ち立てていきましょう。

自己の中にある宇宙柱

例えば一輪の花でも、1個の石ころでも、空に浮かぶ雲でも、そこに何か識別可能な存在があったとします。

その識別可能な存在は、そこになぜ存在し得ているのかと言えば、それ以外のすべてを排斥しているからこそ、そこに識別可能な対象として存在しているのです。
それ以外のすべてを排斥しているとは、それ以外の全宇宙を排斥していることを意味します。

同様にして自己自身についても考えてみます。
この自分は識別可能な存在としてここにあります。
このことは、この自分自身が自分以外のすべてを排斥していることを意味します。
すなわちこの自分は自分以外の全宇宙を排斥することによってここに存在しているのです。

以上のような存在の捉え方をもう少し見方を変えると以下のようになります。

この自分が全宇宙を支えている。すべて識別可能な存在はそれ自身が全宇宙を支えている。

通常、人間は「広大無辺な宇宙の中にちっぽけな自分自身が存在していて、何もわからずに生きている。」とこのように認識しているかもしれません。しかし、上記のようなものの見方に立てば、この見解は完全に逆転してしまうのです。

識別の対象は無数にあり、それぞれが互いにすべてを排斥しながら、宇宙を形成し、秩序を形成しています。
そして万象に秩序を与えているたった一つの原理が自分自身をも貫いています。 それを把握することによって、ちっぽけなはずの自分が全宇宙を理解していくことが可能となるのです。

このように自己と宇宙との関係を逆転させ、自己の中にすべてを見ることが自己をよりどころとする生き方の基盤にあるといえるでしょう。

人は自己をよりどころとすることにより、人間社会よりも時空よりも偉大な自己というものを認識し、真理探究の道を歩んでいくことが可能となります。

自立への第一歩・千金万来で財を得よう